「生徒が運営する講習会」で「ゆとり教育」の有効活用 145
ストーリー by Acanthopanax
ビューティフル・サタディ 部門より
ビューティフル・サタディ 部門より
KAMUI 曰く、 "名古屋市にある東海高等学校では「ゆとり教育」による土曜休日を最大限に活用すべく生徒の運営で「サタディ・プログラム」なるものを実施しており,同校教師やOBに加えて各方面から講師を迎え,この2月19日に第6回を開催します。
外務省元上級職の天木直人氏(元レバノン特命全権大使)の講演や国会議員による討論会,介護ボランティア体験などの真面目で硬そうなものがある一方で,木登りやマジックの講座にギャルゲー制作者の業界裏話,プロレスラー大谷晋二郎の「熱い語り」など 3部構成・全 45講座。「ゆとり教育」と言えば学力低下の原因と言われて評判が悪い事も多いですが,それを有効に活用している学校もあるんですね。
なお,一般参加自由で予約が無くても大丈夫だそうですが,講座によっては人が多そうなものもあるので,人数の把握のためにも参加希望フォームから申し込みを。"
ゆとり教育なんて、教員と生徒の能力次第 (スコア:3, 参考になる)
今の子供達に必要なのは基礎的な能力を活用した応用力なんだけど、遊びなどを通して応用する力を育ててこなかった子供達に、中学になってから総合的な学習の時間などを通して学ばせることは大変難しい。出来ないことはないのだが、まず基礎知識が無い子供達が興味を示さないのだから。
必然的に安易な手法(著名な講師など)に頼らざるを得ないのも今の現状。
欲しいと思う気持ちがあるのと無いのとでは、必要とされる教員側の能力も大幅に違うことも分かって欲しい。
また、今回のような講師派遣は様々な形態で行われているが、無料で派遣してくれるところも1校2名までというしばりがあったりするので、トピックのように実施するには金銭的な問題もあります。なお、東海高校は私立ということもあり、柔軟に対応が出来ることもお忘れなく。東海高校の実情を知っていると手放しでは・・・なのでAC
そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:3, 興味深い)
むしろ問題に思うのは、問題集を解くことしかできなくて、自分で解法を捜そうとする人が減ったこと。何かする前に人に聞いて確認取るとか、失敗を恐れて最初から行動しないとか・・・
失敗できるうちに失敗して、失敗から学ぶ方が何倍も身につくと思うんだがなぁ・・・
#ようやくプロジェクトが開けたので今は「ゆとり」よりも「休み」が欲しい。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:2, すばらしい洞察)
更に大事なのは自分で問題を探す能力かと。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:2, 参考になる)
>自発的な学問にはそんなにコストはかからないんじゃないかと思う。
ここらへんのことは、東大・苅谷剛彦氏や教育社会学方面でしばしば触れられています。。
端的に言ってしまうと、低収入=対学習低意欲がほぼ成り立ってると。
学習に限らず演芸や美術館通い等の文化活動頻度も大きく差が出てきます。
結局、親に相応の経済的バックボーンがあって始めて、 本(ライトノベル等の娯楽本は含まない)や博物館への出費を厭わなくなるわけで。
#「ゆとり教育」による二極化が指摘する所もここに行き着き、
#皆塾に通うからといっても塾費用が家計を圧迫するような収入帯では
#文化活動費は捻出できないわけで、結局差異は変わっていないことになるわけです。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
物凄い勢いで激しく同意。
「ゆとり教育」は義務教育の形骸化を招き、公立学校が事実上使えない場になってしまった。
真っ当な知識と思考力を子供に与えようと思うなら、潤沢な教育費用を用意して私立に通わせ、塾に行かせなければならない。
貧富の差が教育レベルの差を生み出し、それは子供の社会的行動のベースになる判断力の差にも結び付く。
ここ最近の凶悪な少年犯罪とゆとり教育は、決して無関係ではないと思う。
受験戦争などと言われていた頃の方がまだ良かった。
結局社会に出りゃ生存競争なんだから、その為に必要な知識や思考能力を付けておくのは必然。
義務教育を決して軽視してはいけない、と思います。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
>なので、貧富の差より親が学問に意義を感じてて、それを伝えられ
>るかどうかにかかってくるかも。収入との相関もあるんだろうけど。
あー。
学問についてはその通りなんだろけど、問題は、
生徒らが習得しないとならない(義務という意味じゃなく、しないと将来貧乏になっちゃう)のは
学問ではなくて(^^;ジュケンベンキョーである(らしい)、ってのが問題なわけだよね。
しかも、ジュケンベンキョーの習得のほうには
お金が必要である(という構図が作られちゃってる)、と。
ところで、日本は一頃よりは受験戦争が凄くなくなったと聞いてるんだけど、
それでも相変わらず、受験勉強の量(藁)とその後の収入には、正の相関があるんでしょうか?
#よくわかんないけど、ただ、こないだのNHKのフリーター工場労働哀歌(?)番組を見ると、
#すごく「貧富の差」という概念が不安が心配になったんでG7
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
> お金が必要である(という構図が作られちゃってる)、と。
本当にそうですか?
塾に行ったり、家庭教師を雇ったりと「お金を掛ける方法」もいろいろあるけれど、わざわざそんなにお金を掛けなくても数冊の参考書代程度の「お金を掛けない方法」もあるし、前者が優れた方法だということもないと思います。
あと、どこの学校でもやってるのかは知らないですが私の母校の公立高校では、希望者を募って受験対策向けの講座を無料でやっていましたし、塾的なものもお金が掛かるとは限らないと思います。
# 講座に興味はなかったですが、好きな女の子が参加していたので
# その講座に参加していました(笑)
「お金を掛ける方法」は、親が勉強させてる気分になって安心するという効果が高い為に人気なだけではないでしょうか?
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1, 参考になる)
特に進学校は私立だけの地方だと、シンドいかもしれません。
でも、北海道だと進学校が公立ばかりなので、貧乏でもなんとかなります。図書館は無料ですから、本ならいくらでも読めますし。
国立大学に進学して、親の収入証明出したら3年半ずっと授業料免除してくれたので、ウチはかなり貧乏だったと思います。親はそういう制度を知らずに入学金と最初の授業料は借金して出してくれたみたいですが。
もちろん、生活保護を受けるくらいの収入で、勉強するより子供がアルバイトして生活をささえてて、参考書やノートを買うなんて無理、電気代も払えなくて、ローソクで夜をすごす、という状態だと、勉強するのはかなり困難でしょう。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
なんつったって「公務員」というだけで教員志望するやつが多過ぎ。
昔は給料安いけど聖職だった(もちろんろくでもないのがいたのも知ってる)。
まじめに教えようとすると時間が足らず、足らない時間に詰め込むので理解が進まず、そして授業内容は低レベルになるので馬鹿ばっかり&できるやつも授業中は寝て塾で勉強。
今の中学の教科書なんて私らの頃からだいぶ範囲が狭くなってて、この程度でええんかいなと思うよ。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
それはそうかもしれないけど、希望者多数でポストは稀少なわけだから
大勢の希望者の中から上澄みの優秀な人材を採り放題じゃないですか。
それが何でレベル低下になるのかが不思議で仕方がない。
教育学部出て教師になるのがとても難しいのが現状なんですよ。
むかしの「でも・しか」で先生になれてた時代なら、先生のレベルも
低かったのかもしれんが。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:2, すばらしい洞察)
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:2, すばらしい洞察)
大学を卒業してすぐ教員になるのではなく、何らかの社会活動をしてから教員になる
というのは有用かもしれないと思います。
学生→教師
ではなく
学生→(何かわからないけど何か)→教師
ということですね。
大学院には進学しなかったので、大学院生が果たして「学生」かどうかは
わかりませんが。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
まだこんなこと言ってる人がいるとは。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
平成元年の指導要領から円周率の扱いは変っていません。桁数制限が問題であることについては同意。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
で、政府のほうは最近、そのへんを突っ込まれなくするために、
憲法のほうを変えようとしているようです(T_T)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20050213ia01.htm
>信教の自由(20条)については、「政教分離原則を守りつつ、国や地方自治体の地
>鎮祭関与や玉ぐし料支出については、社会的儀礼や習俗的行事の範囲内であるとして、
>許容する」と明記した。
なんか、ここ数十年で
「政府自民党が」不便を感じた点ばかりに
パッチ当てようとしてる感じ。
>混乱の元だろ。
混乱という表現は、問題を的確に表現しないってゆーか、むしろ本質を隠蔽するよね。
というのは、「どっちが」混乱させてるのか?は、
本当は相対的な問題なんだけど、
混乱という言葉はどうやら、どっちか一方を一方的に混乱の元と
決めつける効果が有るようなので...
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:2, 興味深い)
>>信教の自由(20条)については、「政教分離原則を守りつつ、国や地方自治体の地
>>鎮祭関与や玉ぐし料支出については、社会的儀礼や習俗的行事の範囲内であるとして、
>>許容する」と明記した。
こういうことを言い出す時点で立派な馬鹿が育っているってことですよね。
その、ゆとり教育じゃない世代の方に。
「憲法とは国家権力を制限するものである」という、憲法学の最低限の基本
も知らない無知どもが国の中枢に居る時点で既に終わっていると思うわけだが。
国民に何らかの規範を押しつけるものじゃないんですよ、憲法ってのは。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
>国民に何らかの規範を押しつけるものじゃないんですよ、憲法ってのは。
国が自己弁護するためのものでもないわいな。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
ちょっとだけ突っ込まさせてもらうと、
憲法は「国を形成するための基本原則」であって、
国家権力を制限するものではないです。
(結果的にそうなるものもありますが)
そうでないと、民法や刑法が成立できなくなる。
行政を拘束するのが目的の法律は、
行政法等の憲法に対する特別法群です。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
それはどうだろう?
だって、現行憲法の中にも国民の義務は少ないながらも制定されているじゃないですか。
その一つは、勤労の義務で、ごく道徳的な規範ではないでしょうか。
憲法の中に国民の義務が定められているのは、極一般的です。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
フランス共和国国歌「ラ・マルセイエーズ」`LA MARSEILLAISE'
作詞・作曲:ルジェ・ド・リール
ですな。思想・心情的に賛成できない、というフランス人もいるかもしれませんね。
でも、これが民主的に国歌として制定されたのであれば、
自分の思想・心情を措いてとりあえず国歌として相応の敬意を払う、というのが民主主義。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
その通り。つづきはこちら [srad.jp]で。
Re:そもそも「ゆとり」は必要なのか? (スコア:1)
日本といえば、少数意見だろうと何だろうと、声が大きいほうに向いてしまう国ではなかろうかと。
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そろそろ時間です。
木登りって・・・・ (スコア:2, 興味深い)
ひと昔前ならしょうもないことを大まじめな体裁でやるネタで通用しただろうけど
今時は本当に「木登りを覚えさせたいんです」なんてPTAがいそうで怖いな。
けど企画自体を本当に生徒が出しているのならおもしろいよ。これは。
逆にセンセイあたりがお膳立てしてるのならサイアクだけど。
遊びは自分でつくりだすからおもしろい。
遊びかたがマニュアル化され、楽しみを「与えてもらう」ことに参加者が慣れちゃうと
そんなものはもう遊びじゃない。盛り上がらんし。
「遊べない子供」を何とかしたいという動きがある一方で
遊び方まで講座化して「教育」と称する動きもあるか。
その両者が同一だったりしなければいいが
Re:木登りって・・・・ (スコア:1)
あげくに先生からも授業中に「できないのお前だけだ、グズ」と貶され。
本気で木だろうが棒だろうがなんだろうが登りたいんです!
今時は本当に『木登りを覚えたいんです!』っていう生徒希望者ならココに1名居ます。
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投稿処理前プレビュー確認後書込処理検証処理前反映可否確認処理後……
Re:木登りって・・・・ (スコア:1)
それはそうなんだが、一方で、
他人の楽しみのために自分が居るのか
自分の楽しみのために他人が居るのか
っていうあたりも、
ちょっと考えないとならないわけで。
社交性といえば聞こえがいいけど、
大人だって笑顔の陰では胃炎になってるわけで(^^;、
それが良いことかどうかは色々微妙ではあります。
Re:木登りって・・・・ (スコア:1)
いや、間違いなく『そういう先生』だったのです。
(当時の私は理解できませんでしたが、いろいろ声が上がったらしく私が3年になる頃には居なくなってました)
具体的にどーいうコトしたかというのは話題が別なのでおいといて。
>ダメならダメで練習しよう、と自分で思ったり、自分自身をネタにする呼吸を覚えたりできるか
残念ながら私はその過去をこうして『ネタ』にしてしまいました。
お陰で未だに棒に登れないわけですが。
(別に社会に出て不自由してないので記事が出るまでなんとも考えてませんでしたが)
――ネタ人生は楽しいが、ひょっとしたら何か故意に忘れて逃げてるのかも。
と自分を振り返ってきます。
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投稿処理前プレビュー確認後書込処理検証処理前反映可否確認処理後……
Re:木登りって・・・・ (スコア:1)
みんな今でも張り切って遊び作ってますかぁー?
ハックしてますかー?
それも、Linuxみたいな(自分から見ればオリジナルではない)ソフトだけじゃなく、
なんか変な自分ならではのソフト、作ってますかぁー?
#「自作の遊び方」を学校じゅうに流行らすのが好きだったのでG7
ゆとりなの? (スコア:1)
何やるかは生徒個人に任せるとしても、それが学校関係である必要はないと思うんだが。
#スイミングスクールに通ってましたがね。校外の交友関係が作れて楽しかったですが。
チラシ配りのほうが憂鬱 (スコア:1)
その友人も今では住む場所を変えて平穏に子育てしてるみたいです。ちなみに住んでたのはダウンタウンの出身と同じ市です。
屍体メモ [windy.cx]
予想 (スコア:1)
内容について (スコア:1)
ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:3, 参考になる)
昭和43年ごろに「教育を科学的・系統的にしよう」という動きが起きました。というのもこの頃ソ連がスプートニク1号を打ち上げて、西側諸国が科学力の差に慌てたという背景があります。また、教育を高度化するだけの経済的余裕が出てきた面もあります。
そうしてできた教育課程は、方法はわからないのですが「小学校1年生に集合論を教える」ようにできていました。しかしあまりに高度だったため、大量の「落ちこぼれ」を輩出することとなります。また、校内暴力なども問題となりました。
これに対処すべく掲げられたのが「教育の人間化」でした。昭和53年ごろに、学校にゆとりを作ろうという理念のもとに教育内容の削減、学校裁量(ゆとり)の時間創設などが行われました。今「ゆとり教育」と呼んでいるものはだいたいここらへんから来ています。
#ということを習っている教育学部
#別のスレッドで「ゆとり教育でゆとりを得たのは日教組の教師だ」という言説がみられますが、週休2日で減った授業時間で授業を完了しなきゃならなかったり、自習用の教材を作ったり、問題を起こした児童生徒の世話もしなきゃならないなどで、かえってゆとりが無くなっている先生もいらっしゃいます。私も日教組は好きではありませんが、現場の先生を貶める発言はして欲しくはないです。
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Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
リンク先から読み取れることは「”ゆとりの時間”は存在したが”ゆとり教育”というものは存在しない」ということなのですが、その理解でよいのでしょうか。
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
ただ、落ちこぼれや校内暴力などの問題に対して学習内容の削減をしようとした動向はあって、それを「ゆとり教育」と呼んでいるものと思います。
↑↑↑この線で切り取ってもうひとつジャケットを作ろう!↑↑↑
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
>中教審が「ゆとりと充実」という表現を使っていたそうですが(元資料発見できず)
と
>それを「ゆとり教育」と呼んでいるものと思います。
だと思います。
私は前者の根拠を明確に示した発言を寡聞にして知りません。また、後者については「誰が呼んだか」がとても重要ではないでしょうか? 要するに「ゆとり教育」は「誰が何をもとにそう呼んだのか分からない言葉」ということになりませんか?
私の疑問はまさにそれです。定義を知りたいのです。定義を抜きにして議論が成り立つはずがありません。定義が分からない状態というのは、みんなが勝手にオレ定義を持ちよって好き放題言い放っているだけに過ぎません。
今のスラドでネタにしているのは「ゆとり教育とやら」であって「ゆとり教育(R)」ではないように思われます。オープンソースのときと違うのは、「ゆとり教育の matz や mhatta が存在しない」ということです。技術者は技術用語以外は好き放題に解釈していいということはないと思うのですがねぇ…。
# yuuboku さんがそうだとはいうことではありませんが。
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
#「スプートニク・ショック」ってやつですね。
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
ところがどっこい、「発展的な学習」 [mext.go.jp]なんてものが出現しました。
もっとも文部省の言うことはしょっちゅう変わるので白眼視されてはいますね;-)
>事実を指摘することを貶めると表現するのは、都合の悪いことを指摘された本人たちだけです。
> #大阪市の労働組合といってることがいっしょだよ(w
労働組合も好きではありませんが…中には箸にも棒にもかからないような先生もいますよ。そのへんも頭の痛いところでして。
学習内容がどんなに削減されても、頑張る先生は頑張るし、文句ばかり言う先生は文句ばかり言うわけです。
>将来、自らが進む分野故、甘いだけなのかもしれませんが、
いや、あの、教育学部なんですが教員養成系じゃないんです。
私自身は教員じゃなくて民間企業を希望してます。
#教育学部だというと必ず「先生になるの?」と聞かれてその度説明しなきゃならない因果
↑↑↑この線で切り取ってもうひとつジャケットを作ろう!↑↑↑
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
まあ、この問題に限っていえば「ぐぐれ!」でファイナルアンサーだから
それでもいいんですが、
もうちょっと一般化して考えると、「自分で解決」っていう画一的(^^;な捉え方もまた
危険だったりするわけです。
乱暴にまとめて(たとえとして)言えば、
「ぐぐって見つかるようなネタ」は「ぐぐる自由を与えられてる限り」
「自分で解決」することに無理がないので、自分でさせるべき、です。
しかし、
情報元が限られてて世間(Google)では無理なネタだとか、
NetReachableじゃない蛸部屋に押し込められてるときとかに、
「自分で解決」しろと要求するのは、無謀です。
その場合に出来ることといえば、せいぜい自分で「想像(妄想)」することだけ
なので、まさに「思いて学ばざれば即ち危うし」のアンチパターン。
状況次第なんですよね。結局は。
#状況を顧みない上司はもうウンザリなのでG7
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
元の疑問を投げたものです。
いくつかリンク先を見てみても、オレ定義の再生産でしかないように見えます。「ゆとり教育」そのものが明確になったうえで「自分なりの考え」が得られるのなら問題ないと思いますが、そこが漠然としたままでの「自分なりの考え」はオレ定義でしかないように私は思うのですが、どうでしょうか。
もっと言えば今の「ゆとり教育」という言葉はその含む意味が広すぎて、「とりあえず批判するために便利な切り口」に成り下がっているように見えます。例えば「教科書の内容を虫食い的に削減することに対する批判」は批判対象と批判のロジックが明確です。しかし「ゆとり教育に対する批判」の場合にはその対象がしっかり捉えられているとは思えないのです。
ゆとり教育の構成要素や方法がどこかで整理されていますか? されているのであればそれを知りたいということなのです。あるいは理念に対する批判でしょうか? そうであればとてもデリケートな議論を要する問題ですよね。それはそれで面白いと思いますが、少なくとも日教組や学力の話を簡単に結びつけることはできないと思います。日教組や学力の話は具体的に過ぎます。
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
>朝日新聞(or NHK)という総体に対する批判もおかしければ、
>北朝鮮(or 米国)という国に対する批判もおかしいという主張ですか?
>
>個別論は個別論、総体論は総体論としてそれぞれ存在するものであって、
>どちらが正しい/正しくないという話にはなりえないのがふつーですよ。
個別論、総体論については同意しますが、今回の場合はそのまま当てはまらないのでは?
北朝鮮という総体や NHK という総体は一般的には揺らぎがありませんよね。(地下組織があったりしたら定かではありませんが。)しかし「ゆとり教育」は揺らぎまくりではないですか?そしてそのまま進むのはまずくないですか?という疑問なのです。
北朝鮮や NHK と同じレベルで総体としての批判の対象になるのは文部科学省や国なのではないでしょうか? 私も文部科学省や国に対する批判なのであれば疑問には感じませんよ。
Re:ゆとり教育ってなんですか? (スコア:1)
>
>その時点で既におかしいと思います。
まずい言葉を使ったと思いました。
北朝鮮や NHK は組織あるいは集団であって、個々に何が行われているか分からなくてもその組織あるいは集団の”存在に揺らぎはない”(この表現もまずいのかな)ということが言いたいのです。伝わりますかね。
”認識の揺らぎ”であればこれは確認しようがありません。おっしゃる通りです。そして「”ゆとり教育”は認識上にしか存在しないのではないか?」ということが言いたいわけです。北朝鮮や NHK は実存だが、ゆとり教育は認識ではないかと。認識は揺らぎまくりなのだからきちんと共通理解を作るための定義や対話がほしい、ということです。
>各々が規定する「ゆとり教育」と揶揄される教育施策群は、事実として存在するわけですから、
>最大公約数としての枠は揺らぎようがないと思いますよ。
ポイントはここだと思います。
「ゆとり教育」が揶揄なのであれば、議論を展開するときは個々の政策について批判すべきではないでしょうか。#693447 で書いたように個々の政策の批判は批判対象とロジックが明確になるので疑問はないのです。しかしゆとり教育を批判するためには、またゆとり教育を以って教育改革や今の教育そのものを批判するためには、丁寧に共通認識を探るべきだと思うのです。「ゆとり教育」がそこに端を発したと言われることが多い(ように見える)1977年の学習指導要領改訂以降、どれとどれが「ゆとり教育」と呼ばれる教育施策群に属するのかくらいは明らかにできるのではないでしょうか? まさかそれ以降全部「ゆとり教育」だ、なんてことはないわけですよね? どうも私にはそういう部分が明確にならない限りいい代案も出てこないのではないかと思われるのですが。
すでに20年近く昔ですが (スコア:1, 興味深い)
方を招いて市民会館で講演会を行っていましたが、毎回楽しい話に
興味津々でした。
また、生物の先生は「蝶」の研究家で、毎年度最初の授業では
自己紹介を兼ねた「蝶を探しに南米に行った話」を時間いっぱいに
話をしてくれました。
そして、2回目の授業は学校周辺の植物採集。先生はどんな植物も
名前を知っていました。蝶の繁殖に関係有るために植物の種類も
覚ることが必要だったということでした。
教科書とは少々かけ離れていたのかもしれませんが、
おかげで生物の授業はいつも楽しく興味をもって受けていました。
本当の「ゆとりの教育」っていうのは、時間を減らすことでは
なくて、こういう授業内容のゆとりを作る事かなと思っています。
実は、このプログラムには10年ほどの実績があります (スコア:1, 参考になる)
このプログラムは私が在籍していた10年ほど前から行われています。
今では生徒もプログラムの構築に参加しているようですが、
当時は学校側からのプログラムのみで、
また一般にも開放されてはいませんでした。
しかし、当時見かけたものと同じ講義名も見られるので、
根本は変化していないと思われます。
また、中学(東海は中高一貫です)では、卒業時に卒業論文と称して、
生徒が個人、或いはグループで、各々テーマを決めて研究を行い、
それをレポートにまとめるプログラムが行われています。
私は小説についてのグループに入り、
近辺の某小説家にインタビューに行った事を覚えています。
もともと生徒の自主性を重んじる校風だと感じていますが、
これらは生徒側の占めるウェイトが通常の授業に比べて格段に大きく、
でしゃばらない程度には学校側のサポートもあり、
自ら行う学問の楽しさを知る点で非常に役に立ったと思っています。
結局 (スコア:1)
画一的な教育を施す限り、
ゆとりがある人とない人は生じるでしょう。
あとはその境目がどこになるかの違いだけでは?
Re:生徒の運営で (スコア:3, 参考になる)
#持っているID
#絵柄はソレ系の絵でコスプレっぽい看護婦さん(?)が「一人で悩むよりまず電話 (お気軽にね)」と言っている絵でした。
Re:生徒の運営で (スコア:1)
地元大手の中日新聞は愛知の公立校の管理教育万歳派で、授業時間のことで東海に嫌がらせしてきた実績がありますから。そのせいで高3の冬は秋以降はテストが終わっても家に帰れず体育ばかりやらされましたわ。
Re:生徒の運営で (スコア:1)
Re:ゆとり教育って (スコア:1)
ただし、そのすかすかの時間帯に何をやるかは自分次第です
興味のある事を自ら探し、調べ証明する事が要求されます
大学にまで来たのですからきっと可能なのかもしれません
高校生以下にはそれでは酷ですから、興味が起こりそうな事柄をそれぞれ見つけられるように指導する必要性があります。
また、多面的な視点をもって調べる方法等も教える事も必要でしょう
可能ならば、様々な専門家の意見も聞けるように出来れば最高です
調べた結果を、証明・解析しその内容を否定または肯定し、自分の考えとしてまとめ上げれるように導くことも必要でしょう。
興味の有ることを調べ、証明し、探求する事ができたのなら
その内容がどうであれ、それは良い教育なのですが...
私には無理だなぁ~そんなこと教えるの自分ですらできてなし(苦笑)