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犯人はmoriwaka -- Anonymous Coward
消費者として「科学」を選択してやる、という心得違い (スコア:4, すばらしい洞察)
この本の中で、小学校に上がってくる子供達はすでに「消費者」として自分を確立してしまっている、
という指摘があります。だから学問が役に立つと思えば「わざわざ勉強してやる」し、学問の意義を
教師が説明できなければ、納得できないのに勉強するなんて消費者の沽券にかかわる、という説です。
このような心得違いが、小学生に限らず、くだんの道徳教師にも蔓延している、という見方は
できないでしょうか。まるでバイヤーのように「科学」と「オカルト」を比較して、
子供達がより少ない努力でより大きな成果 (丁寧な言葉遣いなど) を得られる方を選んで
仕入れてくる、という考え方です。その考え方で正しい、と思っているからこそ、
前野氏の指摘に対して道徳教師は腑抜けのような反応しかできなかった、ということではないでしょうか。
Re:消費者として「科学」を選択してやる、という心得違い (スコア:0)
「えらく」なれるとか「金持ち」になれるといった生々しい目標なしに児童がするということがあるでしょうか?
#ここでは平均的な子供を相手にします。昆虫少年とか
#(ある分野だけであれ)自発的に勉強をする子供のことは考えません。
明治期に学制を広めていったとき、政府は繰り返し「学問を修め、一人の人間として自立すれば、身分も高くなれるし、収入もあがる。」(立身出世)と説いてまわりました。周囲の大人たちは「末は博士か大臣か」と上級の学校を出た生徒や学生を囃したてたのです
Re:消費者として「科学」を選択してやる、という心得違い (スコア:0)
わたしは現在の主体である地方自治体には
これからはもうすこし高邁な目的を持ってほしいです。
消費者をでなく共に生きる市民を育ててほしい。教育の目的を明快なものにする努力をはじめてほしい。
夢ですので、今は事実ではありませんが、時代が違うのですから、そのうちに。