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Cogito ergo sum 我思う、故に我ありって「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」
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192.168.0.1は、私が使っている IPアドレスですので勝手に使わないでください --- ある通りすがり
証明するには? (スコア:3, 興味深い)
特に、陰謀論を主張されると、状況証拠の数々が、作為的に作られた偽物とされて却下されちゃうだろうし。
もし、確実に行ったと説得できるような証拠を出す必要があるとしたら、何を出せばいいんだろう?
うーん。
月に、望遠鏡で見えるような地上絵描いてくれば良かったのにね。
Re:証明するには? (スコア:0)
Re:証明するには? (スコア:1)
Re:証明するには? (スコア:0)
思うこと、感じること、なんにしても、その主体、つまり
自分が存在しなければ、どうやって説明するのでしょうか。
もちろん、自分がどのようなものであるかは、別問題で、
思ったり感じたりしているのが、実はすべて夢や
バーチャルリアリティーだったとか、自分は人間じゃなくて
胡蝶だったとか、単細胞生物だったとか、人工頭脳だった
とか、実体のない何か(神や悪魔や幽霊のような?)
だったとか、そういう可能性はまったく否定されてない
ですが。
Re:証明するには? (スコア:0)
「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」
つまり、全ての存在を否定しようとした場合、「全ての存在を否定しようとしているナニカ」の存在は否定できない、故に少なくとも疑っている私は存在しているっていう、論理学的には結構明快な理論が大本なんですよね。
なので個人的に和訳は「我”疑う”、ゆえに我あり」とするほうが分かりやすいのではないかと思っていたりします。
ちょびっと違うぞ (スコア:0)
「私がこのように "全ては偽である" と考えている間 でさえも、…」
でないと意味が無い。この「でさえも」がないと
「私がこのように "全ては真である" と考えている間は、その私自身は存在しなくてもかまわない」
とかいう(意味不明な)論理が存在しうる危険性が「残って」しまう。
つまり「疑う」場合だけではなく、何らかの思考を行っている場合は全般に私の存在を肯定せざるを得ない、というのが Cogito ergo sum の意味なので、「われ"疑う"」ではなく、「われ"思う"」が正しいのですよ。