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犯人はmoriwaka -- Anonymous Coward
「作る人」と「使う人」がいるというのが現実 (スコア:1, 興味深い)
フリーソフトウェア(オープンソース)は自由に作れるが簡単に使えないのが現実。
プロプライエタリソフトウェアは自由には作れないが簡単に使えるのが現実。
プロプライエタリソフトウェアは自由には作らせないで簡単に稼げることが理想。
作る人にとっては自由に作れることがうれしい、と思う。
使う人にとっては簡単に使えることがうれしい、と思う。
この二つを満たすのはどちらのソフトウェアを作る立場でも追求できますが、
どちらの立場でも制約はあるでしょう。
使う人に普及するということは、簡単に使えることを満たすことで実現できる。
だからお金を支払うことで、プロプライエタリソフトウェアの理想と合致することになる。
しかし、フリーソフトウェア(オープンソース)を作る人の理想とは合致していない。
なぜなら、使うことと作ることが同義であるという認識を持っているから。
使うだけで作らないという認識が受け入れられず、非生産的な言動を否定されがち。
それでも、使う人に普及するということは、簡単に使えることを満たすことで実現できる。
それを実現したとき、お金を支払うことと比べれば圧倒的に優位になる。
プロプライエタリソフトウェアを作る側としてはそれを脅威と受け止める。
対価を支払わず利益を得るという構図が実現できても、それが持続するかは疑問がある。
フリーソフトウェアの普及方法として、プロプライエタリソフトウェアと対抗する形で
同じことをしていると不毛な結果にしかならないと感じているのは、上記の疑問がある為。
対価を「金銭」ではなく「貢献」として与えることで使いやすいソフトウェアを得られる
という、生産的な理想を理解してもらわなければ、本当の意味で普及はしないと考える。
問題点は、その貢献がどのようにしてできるのかがはっきりせず、小難しいことばかりを
求めてしまっているのが、普及につながらない理由ではないかと思います。
さて、皆さんは自由が欲しいですか?
市場(シェア)がどうこうという金銭に囚われて普及してほしいと望むのは、
問題がどこにあるのかが分からない上に、本当の自由を知らないのではないか。
「強請るな、勝ち取れ、さすれば与えられん」