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「生徒が運営する講習会」で「ゆとり教育」の有効活用」記事へのコメント

  • どなたかポインタでいいので示してもらえないでしょうか? 「ゆとり教育」ってなんですか? 可能なら第何期の中教審、あるいは臨教審で誰が言った、ということまで示していただけるととてもスッキリするのですが。教えて君ですいません。
    • by Anonymous Coward on 2005年02月13日 21時43分 (#693209)
      >どなたかポインタでいいので示してもらえないでしょうか?
      >「ゆとり教育」ってなんですか? 可能なら第何期の中教審、
      >あるいは臨教審で誰が言った、ということまで示していただけると
      >とてもスッキリするのですが。教えて君ですいません。

      こういう疑問を自分で解決する能力を身につけさせる教育 :-p
      親コメント
      • >こういう疑問を自分で解決する能力を身につけさせる教育 :-p

        まあ、この問題に限っていえば「ぐぐれ!」でファイナルアンサーだから
        それでもいいんですが、
        もうちょっと一般化して考えると、「自分で解決」っていう画一的(^^;な捉え方もまた
        危険だったりするわけです。

        乱暴にまとめて(たとえとして)言えば、
        「ぐぐって見つかるようなネタ」は「ぐぐる自由を与えられてる限り」
        「自分で解決」することに無理がないので、自分でさせるべき、です。

        しかし、
        情報元が限られてて世間(Google)では無理なネタだとか、
        NetReachableじゃない蛸部屋に押し込められてるときとかに、
        「自分で解決」しろと要求するのは、無謀です。
        その場合に出来ることといえば、せいぜい自分で「想像(妄想)」することだけ
        なので、まさに「思いて学ばざれば即ち危うし」のアンチパターン。

        状況次第なんですよね。結局は。

        #状況を顧みない上司はもうウンザリなのでG7
        親コメント
        • > 「ぐぐれ!」でファイナルアンサーだから

          ぜんぜんファイナルじゃない。他にも方法はあるよ。

          > 世間(Google)

          ずいぶんと狭い世間ですね。
        • >まあ、この問題に限っていえば「ぐぐれ!」でファイナルアンサーだから
          それでもいいんですが、

          何も分かってないね、あんた。
          まず自分でやってみな。
          • 「ゆとり教育」でぐぐって [google.co.jp]みた。

            「『ゆとり教育』とはなにか」について自分なりの考えを得るには十分な情報が提示されてると思いますので、
            ほぼファイナルアンサーでいいと思いますが。

            もし
            • 元の疑問を投げたものです。

              「『ゆとり教育』とはなにか」について自分なりの考えを得るには十分な情報が提示されてると思いますので、 ほぼファイナルアンサーでいいと思いますが。

              いくつかリンク先を見てみても、オレ定義の再生産でしかないように見えます。「ゆとり教育」そのものが明確になったうえで「自分なりの考え」が得られるのなら問題ないと思いますが、そこが漠然としたままでの「自分なりの考え」はオレ定義でしかないように私は思うのですが、どうでしょうか。

              もっと言えば今の「ゆとり教育」という言葉はその含む意味が広すぎて、「とりあえず批判するために便利な切り口」に成り下がっているように見えます。例えば「教科書の内容を虫食い的に削減することに対する批判」は批判対象と批判のロジックが明確です。しかし「ゆとり教育に対する批判」の場合にはその対象がしっかり捉えられているとは思えないのです。

              ゆとり教育の構成要素や方法がどこかで整理されていますか? されているのであればそれを知りたいということなのです。あるいは理念に対する批判でしょうか? そうであればとてもデリケートな議論を要する問題ですよね。それはそれで面白いと思いますが、少なくとも日教組や学力の話を簡単に結びつけることはできないと思います。日教組や学力の話は具体的に過ぎます。

              親コメント
              • >具体的な個別論以外おかしいということは、
                >朝日新聞(or NHK)という総体に対する批判もおかしければ、
                >北朝鮮(or 米国)という国に対する批判もおかしいという主張ですか?
                >
                >個別論は個別論、総体論は総体論としてそれぞれ存在するものであって、
                >どちらが正しい/正しくないという話にはなりえないのがふつーですよ。

                個別論、総体論については同意しますが、今回の場合はそのまま当てはまらないのでは?

                北朝鮮という総体や NHK という総体は一般的には揺らぎがありませんよね。(地下組織があったりしたら定かではありませんが。)しかし「ゆとり教育」は揺らぎまくりではないですか?そしてそのまま進むのはまずくないですか?という疑問なのです。

                北朝鮮や NHK と同じレベルで総体としての批判の対象になるのは文部科学省や国なのではないでしょうか? 私も文部科学省や国に対する批判なのであれば疑問には感じませんよ。
                親コメント
              • >北朝鮮という総体や NHK という総体は一般的には揺らぎがありませんよね

                その時点で既におかしいと思います。
                そのコメントからは、あなたにとって揺らぎのない北朝鮮の総体という概念を規定しているらしきことはわかりますが、
                それが一般的に揺らぎがないということはどうやって説明するんですか?
                そして、誰かが行っている総体批判で想定されている総体と、自身で規定している総体が
                同じであることをどうやって確認するのでしょうか。

                >しかし「ゆとり教育」は揺らぎまくりではないですか?

                そうですね。
                しかし、北朝鮮やNHKなどと同じく個別にはいろいろ含んでいたと
              • >各々が規定する「ゆとり教育」と揶揄される教育施策群は、事実として存在するわけですから、
                >最大公約数としての枠は揺らぎようがないと思いますよ。

                すいません。この「最大公約数として枠」というのは何ですか?
                #問題を議論するなら、「ゆとり教育」と揶揄される教育施策群の個々の施策について議論するべきだと思うんですが。
              • >>北朝鮮という総体や NHK という総体は一般的には揺らぎがありませんよね
                >
                >その時点で既におかしいと思います。

                まずい言葉を使ったと思いました。

                北朝鮮や NHK は組織あるいは集団であって、個々に何が行われているか分からなくてもその組織あるいは集団の”存在に揺らぎはない”(この表現もまずいのかな)ということが言いたいのです。伝わりますかね。

                ”認識の揺らぎ”であればこれは確認しようがありません。おっしゃる通りです。そして「”ゆとり教育”は認識上にしか存在しないのではないか?」ということが言いたいわけです。北朝鮮や NHK は実存だが、ゆとり教育は認識ではないかと。認識は揺らぎまくりなのだからきちんと共通理解を作るための定義や対話がほしい、ということです。

                >各々が規定する「ゆとり教育」と揶揄される教育施策群は、事実として存在するわけですから、
                >最大公約数としての枠は揺らぎようがないと思いますよ。

                ポイントはここだと思います。

                「ゆとり教育」が揶揄なのであれば、議論を展開するときは個々の政策について批判すべきではないでしょうか。#693447 で書いたように個々の政策の批判は批判対象とロジックが明確になるので疑問はないのです。しかしゆとり教育を批判するためには、またゆとり教育を以って教育改革や今の教育そのものを批判するためには、丁寧に共通認識を探るべきだと思うのです。「ゆとり教育」がそこに端を発したと言われることが多い(ように見える)1977年の学習指導要領改訂以降、どれとどれが「ゆとり教育」と呼ばれる教育施策群に属するのかくらいは明らかにできるのではないでしょうか? まさかそれ以降全部「ゆとり教育」だ、なんてことはないわけですよね? どうも私にはそういう部分が明確にならない限りいい代案も出てこないのではないかと思われるのですが。
                親コメント
              • >「ゆとり教育」が揶揄なのであれば、議論を展開するときは個々の政策について批判すべきではないでしょうか。

                うぃ。
                みんなそうしてませんか?
                稀にチラシの裏に書くようなことしか書いてないコメントもあったりしますが、
                議論としての態を為しているものは、具体的なポイントの話になっているかと思いますが。
                そのような議論において、枕詞として「ゆとり教育ダメじゃん」を使うことすらおかしいという主張なのであれば、
                私は反対します。
              • >>まさかそれ以降全部「ゆとり教育」だ、なんてことはないわけですよね?
                >
                >私は、それで構わないと思いますし、実際のコメントが糞ミソなところを踏まえると、
                >その仮説が、最大公約数として第一候補になると思います。

                ここが分かれ目なのですね。

                私は不満をぶちまけるだけならそれでも構わないと思いますが、建設的な議論にはならんだろうと思っています。そこで、まず自分の思い描くゆとり教育はこれなんだけどさってところを明らかにすべきだと思うんです。そういう形で不満をぶちまけているうちに「いやそれは違うんじゃね?」とか「それ、ゆとり教育の問題ってゆーか○○の問題なんじゃね?」という話になれば、具体的にフォーカスされた議論が展開されて嬉しいことになるんじゃないかと期待しています。

                また、AC 氏(って誰)は最大公約数の第一候補として1977年以降全部ゆとり教育ってことにしていいんじゃないかと考えているようですが、そうなると今30前半以下の年齢の人はみんな「ゆとり教育しか受けていない世代」になってしまうのですが、みんなそういう自覚あるんですかね? 私はこれもおおいに疑問なんですが。。。結構みんなゆとり教育を他人事みたいに語ってませんか? スラドの平均年齢ってそんなに高いんですかね? その点でもほんとにみんな最大公約数を共有できているのだろうか?と疑問を感じてるわけです。

                というか私自身がその年齢に当たるのですが、ゆとり教育の世代と言われるととても違和感を覚えます。受験戦争がピークに達していたように思っていたので。例えば通知表の相対評価がなくなってデキるんだかデキないんだか分からなくなったとか、変に競争を排除するようになったとか、そういう動きは私が実際に学校に通っていた時代にはありませんでした。詰め込みを反省してじっくり学ぶことができていたかと言われると、なんだかやたらとドリルやテストをやっていたような気がします。なのにゆとり世代って言われてもなーという違和感です。自分の感じる違和感だからこそ気になるんでしょうね。ゆとりってなんやねんと。
                親コメント

アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者

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